この連載は、フランスの「プジョーモトシクル」、そして同ブランドを取り扱うADIVA(アディバ)のヒストリーを掘り起こし、興味深いエピソードを皆様にご紹介するものです。今回は、俗に言う小排気量車の分野における、プジョーブランドの先進性についてご紹介いたします。
小排気量を制するもの世界を制す?
現在、2輪の分野で世界をリードするのは言わずもがな日本ですが、日本の2輪車産業の製品が一般的な日本の庶民にとって身近なものになっていったのは、第二次大戦後の1950年代からでした。
戦後の復興期、安価で手軽な移動手段を求める人々の需要の高まり・・・。そして軍事産業から平和産業への転換が求められたという政治的事情・・・。これらの要素を起爆剤に、日本の2輪産業は1950年代に飛躍的な発展を遂げることになりました。
そんな1950年代、日本の2輪市場の主力となったのは125cc以下の小型車たちでした。戦前期に比べると、小さな排気量で高出力を得る技術が飛躍的に進化した戦後期、自転車よりも速く走ることが可能で4輪自動車よりはるかに安価な小型2輪車は、人々の暮らしを支える乗り物として大活躍したのです。
![]() |
1952年に発売され、大ヒットしたホンダのカブF型。市販の自転車に取り付け可能な、50cc原動機+駆動系+燃料タンクという構成の商品でした。 |
日本車に限った話ではないですが、1950年代以降は優れた小型車を作り、それを世界市場に向けて大量生産するメーカーが2輪業界の覇権を握るようになります。1950年代にその座についたのはドイツのNSUであったり、ホンダをはじめとする日本のメーカーたちだったりします。
私たち・・・2輪車を趣味の対象として見る人々は、ついつい派手な大排気量車や高性能車にばかり注目してしまいますが、2輪メーカーにとって一番大事なのは最もビジネスとして重要な「小型車」の分野でライバルに勝つことです。それは1950年代から今に至るまで、不変の真実と言えるでしょう。
1931年に、初の”ベロ-モトール”を発表したプジョー
さて、フランスを代表する2&4輪ブランドといえるプジョーは、第二次世界大戦前の時代から小型車の開発に熱心なメーカーのひとつでした。
第一次大戦後の1922年に、男性用と女性用の2バージョンを作ったサイクロ-モト CM1(110cc単気筒)を発売するなど、プジョーは古くから「小型車」開発の重要性を認識していました。そして1927年に同社久々の4ストローク車となるP104(350cc単気筒)を発売するまで、175cc以下の2ストローク車を数多く製造販売していたのです
そして1931年、プジョーは”ベロ-モトール”と呼ばれるモデルを発表します。そしてその1931年のうちに、プジョーはP50という2ストローク100ccのモデルを販売。これは第二次世界大戦後、2輪の世界で最も重要な市場となる「小型車」の分野の、先駆となるモデルと歴史に刻まれています。
P50系のプジョー小型車開発の背景には、1929年からの世界恐慌がありました。多くの国の経済に大打撃を与えた世界恐慌に対し、プジョーはマルセル・ヴィオレに安価で庶民に手の届く小型車の開発を依頼。そして誕生したのが、P50だったわけです。
![]() |
1931年発表のプジョーのショーモデルは、モーター付き自転車、と言えるベロ-モトールの元祖です。 |
いつの時代も、人々の「足」であり続けるプジョー
もっともP50が誕生した当時、アルシオネッテという2ストローク100ccの小型車など、同じようなコンセプトの小型車はすでにフランスにありました。そこでプジョーは、過酷な販売市場での生き残りのために、P50系の改良に熱心に取り組んでいます。
![]() |
ベロ-モトールを明記したP50Tのカタログ。 |
P50系の画期的だった点は、より内燃機を軽く仕上げるため鋳鉄製シリンダーが一般的な当時、アルミシリンダー化を進めたことでした。また多バリエーション化を図ることで様々なニーズに応えようとしたことも、P50系成功の理由のひとつでしょう。
ニーズのあるところに、最良の答えとなるプロダクトを投入する・・・それは古今東西、不変のヒット作の必要条件なのでしょう。そしてそんな最適解を出し続けつつ、人々のくらしの「足」となる小型車開発に愚直に取り込み続けたことが、プジョーブランドが120周年を迎えるまでに長く存続し続けることに繋がったのだと思います。