この連載は、フランスの「プジョーモトシクル」、そして同ブランドを取り扱うADIVA(アディバ)のヒストリーを掘り起こし、興味深いエピソードを皆様にご紹介するものです。第3回では第一次世界大戦前というはるか昔に、ギアトレイン式2気筒DOHC4バルブ・・・というハイメカニズムを採用していた「伝説のプジョー車」を取り上げました。
時代を先取りした高性能マシン
フランス製のロードレーサー、といっても多くの人はピンとこないかもしれないでしょう。大雑把にいえば100年以上にわたるロードレース史のなかでは、英国車、米国車、ドイツ車、イタリア車、そして日本車・・・がもっぱら主役として活躍したのが歴史的な事実です。
しかし、ロードレース史のなかでは存在感が乏しいといえるフランス車のなかには、非常にエポックメーキング的な存在も確かにあったのです。第一次大戦前の1913年から開発されたプジョーM500というモデルは、その代表例のひとつです。
スイス人エンジニアのアーネスト・ヘンリーは、1912年にプジョーの自動車用4気筒エンジンをレーシングモーターサイクルに使いました。そして翌年から、495ccの並列4ストローク2気筒エンジンを搭載するプジョーM500を開発します。

M500に搭載されたエンジンは、気筒間にカムギアトレイン機構を備えており、気筒あたり4バルブという当時としては非常に先進的なDOHC機構を採用していました。しかし、当時の冶金技術や加工技術はこのハイメカニズムと耐久性を両立させるほど進歩していなかったため、バルブシートの間に生じるクラックにヘンリーは悩まされたそうです。
エンジンのかなりの「モダンさ」に対し、駆動系や車体は当時の技術レベルを反映したものでした。駆動はギアボックスを介さないベルト式のダイレクトドライブ。フロントフォークはガーダー式で、リア側はリジッド・・・という構成をM500は採用していました。
1913年のテスト走行では、フライング・キロメートルの速度記録で122.2km/h(75.9mph)を達成。今としては低出力・・・としか多くの人は思わないでしょうが、15馬力というM500の出力は当時としてはかなりの高出力だったのです。
その正しさを、後世のモーターサイクルたちが証明
第一次世界大戦の勃発により、M500の開発は中断することになりました。そして戦後、プジョーはヘンリーのオリジナルデザインを元にM500の開発を再開。マルセル・グレミヨンによって再設計されたM500はバルブトレインをエンジン側面へ移設し、クラッチと3速ギアボックスを新たに与えています。
さらに1923年には、レスマン・アントネスコによりデザイン変更が行われました。これはヘンリーのデザインを放棄するような変更とも言え、バルブトレインはベベルギアとシャフトドライブ方式のOHC2バルブという、ノートンCS1やベロセットKなどの1920年代当時の2輪用レーシングマシンではおなじみの方式になっていました。しかし、その構成の採用は上述の2機種よりも早いもので、フランス的なアバンギャルドさはこの改良型にもあったと言えるでしょう。
ヘンリーの作から始まる一連のプジョー製500ccツインで、この1923年型は最も速く、信頼性が高いマシンに仕上がっていましたが、プジョーが自動車部門と2輪部門を分離させたことの影響で、このプロジェクトは1925年を最後に終了することになりました。


2010年にフランスで開催された「レトロモビル」では、複製されたM500が展示されて話題を呼びました。このレプリカは家庭で使うような小型旋盤とフライス盤を使って、約10年の歳月をかけてフランス人の手により生み出されたものです。
M500の後の時代・・・今に至るまでの時代では、様々なレーシング4ストロークエンジンが世界中のメーカーにより開発されました。そしてカムギアトレインと4本以上のマルチバルブの組み合わせは、現時点ではひとつの究極の方式として定着して久しいです。
M500はマン島TT制覇などの大成果をおさめたわけではありません。しかしM500が例示した技術的な優秀性は、後世の多くのレーシングマシンたちが実証してくれた・・・と言っても良いのかもしれません。